Monologue

5.繋がる繋げる(2019/5/18)

1)ひらめき

人間が新しい物事をひらめくのは、入浴中、トイレ中、散歩中、寝起きの状態等が多いという意見があります。つまり、脳が休んでいる状態にひらめくことが多いという事になります。最近の脳科学の研究では、脳は休んでいる時も7割程度が活動しているといわれており、ひらめきの瞬間の脳の状態と前述の脳が休んでいる状態とは似ているということです。両方の状態に共通しているのは、脳神経の活動状況が繋がっているということだそうです。
人間の脳は、千数百億個の神経細胞でできており、複数の伝達物質と電気信号によって情報交換されています。コンピュータは、1と0の値を電気信号で伝達する仕組みですが、現時点では、人間の脳の方がはるかに複雑な仕組みですし、現時点のコンピュータでは、人間のひらめきの様な活動は十分にできません。
さて、人間の「ひらめいた」という瞬間は、何を意味するのでしょうか。前述の脳の神経細胞の活動が示す通り、複数の記憶が繋がったと理解できた瞬間ではないでしょうか。記憶が繋がるということが人間に分かったという理解を与え、その繋がるという理解が、全く新しい組合せであった場合、人間はひらめいたと感じるのではないでしょうか。
ひらめきには、大小さまざまあると思いますし、当人がひらめいたと感じても、他の人が同じひらめきを先に感じていれば、人類にとってのひらめきにはなりません。しかし、人間にとって、ひらめきが多い人生の方が少ない人生より豊かな人生であるように思います。
従来は、記憶力が優れた人が頭の良い人という認識がありましたが、コンピュータや通信が発達し、記憶という機能のポテンシャルをコンピュータが人間を凌駕し、容易に身近で享受できるようになってきた現在において、記憶力という能力の重要度が相対的に低下したと考えられます。
「人間は考える葦である」という言葉がありますが、考えるという機能においても、AIの技術が進歩し、単純に組み合わせる、分類する、それらを選択するといった行為では、既にコンピュータが人間を凌駕しつつあります。しかも、コンピュータは人間の様に疲れませんし、正しく判断できる事象においては、何度行っても正しく判断でき、それらの記録も忘れることはありません。
しかし、ひらめきについては、少なくとも近い将来において、人間がコンピュータに後れを取ることは無さそうです。これからの人間に求められる最も重要なことの一つに、ひらめきがあるといえます。

2)分かる

私が考えるひらめきとは、「新しいことが分かる」だと考えています。これを段階的に検証してみましょう。
人間は、分からない事でも記憶できます。知っているという最初の段階です。五感から入った情報を脳に記憶させた状態です。しかし、単に記憶させたというだけではありません。単に記憶させたというだけでは、何の意味がありません。脳に記憶したという事は、当該記憶は取り出すことができ、他の情報と比較することができるという事になります。つまり、知っているという段階です。
人間の中には、極めて稀にですが、映像記憶を瞬時に膨大に行える人が居ます。写真記憶といわれるこの特殊な能力がある人は、膨大な映像の中から特定の人を瞬間的に選別するようなことが行えるようです。当該能力は、人間社会にとって有益ではありますが、後天的に備えるのは難しいと思います。
分かるというのは、知っているという先にある状況です。第一の違いは、他の記憶と繋がっているという事だと思います。「知るを知る」という言葉があります。ソクラテスは「無知の知」と教え、論語では「知らざるを知らずと為す是知るなり」と教えます。つまり、知らないという事が分かっていれば、知っているという事も分かっているという事です。これは、分かるの最初の状況であって、知識といえる段階です。知識ですので、当該情報を系統的に記憶できていますし、知らない範囲も理解できています。
しかし、「分かっているか?」と問われるといささか心もとない気がします。分かるとは、知識と他の知識との関係性が理解できており、その位置付けや活用方法が理解できているという事になります。また、他人に分かっていると回答するには、自分自身が当該知識を活用できるという自信が必要になります。
つまり、分かるとは、記憶を系統的な知識として記憶し、他の知識と繋げ、自分自身による活用方法(道具、組織等、他を活用してでも実現できれば良い)の知識にも繋がっている状態であるといえます。
この分かるという状況が自身で発生し、それが今までにないノウハウ等であると理解した時、ひらめいたという感情になるのではないでしょうか。

3)繋げる

先ず、知識がなければひらめきには繋がりません。記憶という能力の重要性が低くなったという話をしましたが、外部記憶をいくら集めてもそれだけではひらめきにはなりません。つまり、最低限の知識が無くては、ひらめきは生まれません。
知識は、系統的に記憶することが重要ですが、系統化ができないと断片的な記憶が残るだけで、知識にはなりません。私は若い頃、あまり車に興味がありませんでした。高度成長期には、沢山の種類の車が発売されましたが、車の名前を覚えるのは困難でした。しかし、友人が、新発売の車の名前だけでなくその特徴も直ぐに理解するのをまじかに見て、私の記憶力は低いのではないかと考えました。私は成人して、車を購入する事になり、製造会社、車種タイプ、価格ランク、その他の違いを吟味して自分の好みの車を購入したのですが、その後は、新車が出ても過去の友人と同じように私も車の情報が記憶できていました。
その後、私は自分の車でドライブし、日本の四季を楽しみました。そうすることで、車の理解も深まり、他人が車を購入する際にアドバイスできるまでになりました。また、異なる車に乗ることで、更に車に対する理解が深まったと感じています。自分にとっての車という存在がどういうものであるのかが分かったような気がします。
つまり、分かるという事は、前提として知識があるという事がありますが、重要なのは、知識を繋げるという事では無いかと思います。知識は、部分的には外部記憶を活用することができます。元々からある知識はありません。外部記憶を整理し知識としながら、それらを繋げることで分かるという事に繋げることが重要になります。
繋げるというのは、能動的な行為ですし、日ごろから鍛えることも可能です。つまり、記憶という能力は、先天的な位置づけが高いといえますが、ひらめきに必要な繋げるという能力は、後天的な位置づけが高く、これからの人間にとって注目すべき能力だと考えます。

4)データ分析の目標

データ分析の一時的な目標は、データを「見える化」することですが、その結果として、「分かる化」「できる化」に繋がらなければなりません。つまり、データ分析は、「分かる化」を鍛える分かり易い方法であり、ひらめきができる人を養成するのではないかと考えています。
データ分析結果により多くの人を「分かる化」に繋げていくためには、データを多くの視点でとらえ、それらを繋げて考察するという事が重要になります。
幼いころ、「相手の身になって考えなさい」という教育を受けた人は多いのではないでしょうか。こうして複数の視点で物事を捉えることを学びます。女性は、「ままごと遊び」を通じて、多くの人の立場で物事を考えるという訓練をしますので、対人関係に強い人が育つと考えられています。逆に、幼いころから勉強ばかりしていた人は、対人関係に弱い人が多いともいわれます。「東大生の四人に一人が自閉症スペクトラム疑いアリ」という都市伝説もあります。アスペルガー症候群の人は、知的能力は正常範囲かそれ以上の能力がありながら、コミュニケーション等の社会性に困難があるといわれます。
データ分析では、当該データに関係する登場人物(人とは限らない)を整理し、全ての登場人物の視点で課題等を整理することが最も重要です。会社という組織で一括りにして考える場合、部署ごとに分けて考える場合、社長、部長、課長、担当者の様に階層的に分けて考える場合等、登場人物をどの様に想定するのかがポイントになります。データ分析で登場人物を「分かる化」していこうと考えて、ストーリーが立てられるか否かで判断してください。主人公は、個人でなければなりませんが、その他大勢であれば、某社の人々のように定義しても良いという事です。映画等ですと、登場人物の相関図が描かれ、登場人物の理解が映画の理解を助けてくれます。データ分析も同様に考えることができます。
映画等では、事前設定があり、切り取られた期間内でストーリーが展開しますが、データ分析には、事前設定はありますが、多くの場合に期間設定はありません。データ分析では、現在・過去・未来の視点で課題等を整理することも必要です。過去にはどういう分析がなされ、成功・失敗しているのか、現在はどういう課題があり、過去との違いは何かあるのか、未来においてはどうありたいのか等を整理することが必要になります。
この様な整理をし、「亀理論」にあるように、目標に対し、「成功する意図」と「失敗しない意図」が整理できる様にそれぞれの視点で考えた課題等を繋げていくことが求められます。
この様に課題を整理し、目標に向けて課題を繋げていくことで、データ分析のひらめきに繋げられます。日ごろから、知識を繋げるという行為を重視しておくことが重要になります。