Monologue

4.権利について(2019/3/2)

1)人の権利

人の権利というと、色々なものが思い浮かびます。最近では、勤務時間外のネットのつながりを断つという「つながらない権利」という様なものもありますし、日本国憲法では、法の下の平等が認められおり、精神的自由権、経済的自由権、社会権や参政権等が認められています。25条では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と記されています。沢山の種類があり、どの様に考えていいのかを整理するのが容易ではありません。
そこで、本ブログでは、人の権利を大きく3種類で考えることにしました。「生命」「財産」「尊厳」の3つです。主なもので説明すると、健康でいる権利は、「生命」に関するものですし、個人資産や名声を守るのは、「財産」に関するもので、思想・良心の自由は、「尊厳」に関するものです。
人生を現在・過去・未来に分けて考えた場合、過去から蓄積してきたものを守るのが「財産」の権利であり、今を大切に生きるのが「生命」の権利であり、未来を保証するのが「尊厳」の権利であるという見方ができます。大胆な見方ではありますが、人生を総合的に捉えて、人の権利を整理してみました。異論のある方もいると思いますが、沢山の視点を設けるとその組合せの視点もあることから物事の整理が煩雑になります。3つでは捉え切れていない部分もあるかもしれませんが、一般的な人の権利の議論においては、これで十分ではないかと思いますし、3つに集約することのメリットの方がデメリットに勝ると考えています。
人の権利は、様々な議論において話題に上がります。議論の中心であることもありますし、補足的に議論することもあります。この様に3つの方向性で考えることで過不足なく整理することが可能になると思います。何かを分析しようと考える場合、その視点を整理するということを最初に行うことが重要です。コンサルタントが整理する時に大切にする考え方にMECE(ミッシー:Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)があります。「モレなく、ダブりなく」という意味であり、整理する際の基本的な考え方です。

2)時代と人に応じた考え

人の権利に対する考え方は、時代によっても変わってきますし、人生の中でも変ってきます。人生が60年であった頃、80年であった頃と人生100年の現在では考え方が異なってきます。人生60年の頃では、死を迎える頃に子供は働き盛りで、人生80年の頃では、孫が働き盛りを迎え、人生100年になると、子供も高齢者になります。家族の位置付けや社会での位置付けが変われば、権利に対する考えも大きく異なってきます。
人生を大きく3つのステージに分けて考えてみます。生まれてから働き始めるまでの第一ステージ、働き盛りの第二ステージ、その後の第三ステージの3種類です。人生100年の現在では、第三ステージでは、孫が働き盛りになっており、経済的支援を求められることも少なくなってきます。
一般的には、多くの人が何はさておいても「健康が一番」と答えますが、果たしてそうでしょうか?その重要度は、3つのステージにおいて、異なる重要度に変化していくように思われます。「生命」は、第一ステージにおいて最も重要ですが、年齢を重ねるごとにその効用は逓減していきます。どのステージにおいても「生命」に対する権利が重視されるということに異論はありませんが、その重要度は減少する傾向にあるといえます。
「財産」については、異なります。第一ステージでは、本人に財産が蓄積されていることは少なく、重視されることは少ないと思いますが、第二ステージでは、財産が重要になります。自身の人生を満足なものにするということもありますが、責任ある立場でもなり、周りの人生を豊かにするためにも財産が重視されます。しかし、人生100年においては、第三ステージにおいて必要となる財産は限られ、重要度は低減していきます。
「尊厳」は、2つの権利とも異なります。生まれた頃は裸で人の前に現れても問題視されませんし、働き始めるまでの自由は制限されます。第一ステージにおいては、あまり重視されません。第二ステージにおいては、自由が約束されなければなりませんが、「尊厳」を一部犠牲にしてでも達成すべきことが多くなります。例えば、自由の権利を一部放棄してでも結婚生活を大事にする等が考えられます。つまり、「尊厳」より重要なことも多くなるということです。しかし、第三ステージでは、「尊厳」を犠牲にしてでも重視するようなことが無くなってきます。死を前にすれば、「生命」は重要ではなく、「財産」も重要ではありませんが、「尊厳」は守られなければなりません。尊厳」は人としての最も重要な権利になります。
これらの考え方は、人によって異なりますし、ステージの考え方も人によって変わりますし、ステージを何歳から何歳までと明確に決められません。しかし、「健康が一番」というような考え方が、誰にでも成り立つという様な事はありません。「健康が一番」といいながら喫煙を止めないも居ませんし、毎日酒を飲み歩く人も居ません。健康診断が億劫だという人も居ます。結局、多くの人が、ケースバイケースで権利の重要度を変えながら生きているということを前提にした方がよさそうです。唯一というような考え方はないということです。

3)権利は守られているか

日本という国は、国民の権利を大事にしており、他の国と比較して平和で自由な国であると考えている人が多いのではないかと思います。しかし、見方を変えると別な見え方がするように思います。
「生命」で考えますと、安全は水の様なものという考えがあります。平和であることが当たり前であり、良い一面もありますが、危機管理意識が薄いかもしれません。例えば、我が国は地震国であり、被爆国でありながら、地震が元で被爆事故が発生しています。誰の責任なのかも曖昧です。
「財産」で考えますと、財産を形成する上で大事なのは、それを支える世の中ですが、他の先進国と比較して開放的な市場といえるでしょうか。既得権益を守ることが、法の下での平等といえるでしょうか。門地によって、財産を得る権利が平等といえるでしょうか。蓄財を守ることも重要ですが、財産を得る権利もまた重要です。
「尊厳」で考えますと、我が国は、組織を優先する考え方が根付いています。これは良いところでもあるのですが、個人の権利が犠牲にされる傾向があります。我慢強い国民性からか、問題が表面には出てこない傾向もあります。例えば、医療機関に行くと、待合室で看護師が事前のヒアリングに来ることが未だにあります。他の来客者が居る中で、自分の病状を説明することが求められます。患者の「尊厳」を犠牲にしてでも医師の時間を有効に使うという理論に他なりません。医師が患者を診てやるというパターナリズムの一端ともいえます。医師による診察での会話が待合室に聞こえるという医療機関もあります。しかし、こんな状況であっても問題視している人はあまり居ません。他の先進国ではあまり見られない状況ではないかと思います。個人情報保護の大切さが喧伝され、医療機関が持つ個人情報は最も重要な情報の一つであるとほとんどの医療関係者が口を揃えますが、医療機関の敷地内では情報はオープンでも良いということなのでしょうか。
私自身も平和で自由な国であると信じていますが、十分ではないところもあると思います。分析においては、見方を変えて整理するようにしてください。当たり前という考えや世間の常識は、分析での前提にはなりません。

4)権利と責任

最近も、国家公務員不正問題が世間を騒がせていますが、多くの場合、誰の責任かは分からないままになります。官僚は優秀で、国家を託すに足る方達が多いということに異論はないですし、過去の我が国の成長は、この様な人達の頑張りによって支えられてきたという歴史があるということも事実です。高度成長期において社会を支えていくためには、官僚はミスに恐れることなく立ち向かえる仕組みが必要であり、責任の所在があいまいな体制が重要な時代もあったと思います。しかし、現在がそのような時代であるとは思えませんし、予防牽制を理由とした2年毎の担当替えが絶対であるといった立場を当然視して顧みることがないのはいかがなものかと思えます。
現状は、仕組み上で問題が起こりにくくなることに腐心をしているということで良しとしてしまっていて、問題への対策が十分とは言えません。本来的には、リスク管理として3つの対策が必要です。「予防」、「検知」、「回復」のそれぞれの対策を欠かしてはならないというのは常識ですが、現時点の官僚機構は、予防においては、それなりな対策が施されているのですが、検知や回復の対策はほとんどない状態であるといえます。分かり易くいうと、組織としての自浄作用を働かせる機能が欠落しているということです。しかし、国会では、こういった構造的な欠陥を放置したまま、責任論に終始しているのが現状です。
責任は、権利と一対で考えることが重要です。権利において複数の見方が重要であるのと同じように、責任も複数の視点で捉えることが重要です。問題解決において、問題の責任の所在を明らかにしても、同様の問題が再度発生するようでは、効果は薄いといえます。問題が発生した理由を明らかにし、再発しない対応をとる必要があります。そのためには、問題の構造を明らかにし、自浄作用が機能する仕組みに改めるという取り組みが重要になります。
データ分析も同様で、問題点や責任の所在を明らかにしても大きな意味はありません。それは、見える化しただけです。問題の構造を明らかにし、問題が発生しない若しくは抑制できる構造にしていくことを目指す必要があります。その為には、特殊な議論に終始すること無く、全体を見据えた議論が重要になります。
権利関連は大きな問題で全体を捉えることは容易ではありません。個別の議論は底なし沼に足を踏み入れる恐れさえあり、誰であっても結論に達することはかなわない可能性さえ秘めています。100人が居れば100通りの考え方があるともいえます。多くの場合、権利に関しては一般論での決着を目指すのが適当で、個別の問題は補足的に解決策を考えるしかないように思います。
しかし、責任問題は、多くの場合、一般論だけでは納得してもらえません。この解決策としては、責任の所在が明らかになる仕組みを予め構築しておくことが重要です。そのうえで、自浄作用の仕組みを構築し、総論と個別論に向き合うことが求められます。データ分析においては、個別の問題だけに固執せず、全体を見渡すことが重要です、計画の段階でチャックするようにしてください。