Monologue

10.ロボットの心(2020/02/24)

 さて、ロボットに心を持たせることは可能なのでしょうか。その前に、人の意志はどの様にして形成されていくのでしょうか?それは、数々の記憶から形成されていくものであることは、間違いないと思います。このことについて、私なりに少し掘り下げて考えてみました。
 
1)記憶の種類と構造

 記憶は、その記憶の長さから感覚記憶(即時記憶)、短期記憶、長期記憶のように分類されますが、ここでは、意志に関係する長期記憶に絞って話を進めていきます。
 長期記憶は、宣言的記憶(陳述記憶ともいいます)と非宣言的記憶(非陳述記憶ともいいます)に分けられます。宣言的記憶は、エピソード記憶(日記のような記憶)と意味記憶(辞書のような記憶)に分けられます。非宣言的記憶は、手続き記憶(ボールの投げ方等の身体で覚えた記憶)や反射に関わるような記憶等がありますが、非宣伝的記憶は意志にあまりかかわりが無いので、宣言的記憶に絞って話を進めていきます。
 宣言的記憶は、人間にのみ備わった能力で、人間らしさの源とも言えます。これは、人間が言語を解するからであって、多くの事象を言葉によって一般化することで可能になっています。言葉が無ければ、物事を掘り下げて考えることができませんし、意志を持つことも無かったと思われます。リンゴと聞けば、誰でも、赤くて丸い甘い果実を連想します。黄色や緑色のリンゴも存在しますが、リンゴという宣言で、多くの人が連想するものは同じではないでしょうか。一部の人は、アダムとイブが食べた禁断の果実を連想するかもしれませんし、コンピュータのメーカーを連想する人がいるかもしれません。しかし、多くの人は、詳細な説明をしないでも、リンゴの3文字だけで意思の疎通を図ることができます。人間に近いとされるチンパンジーは、100個程度の言葉を覚えることができるそうですが、文法を理解できないそうです。人間は、言葉を使って、様々な事柄・意味を宣言することで、またその宣言を文法を駆使して多段階に組み合わせることで、より複雑な内容を理解することができるのです。
 私なりに宣言的記憶の構造を考えてみました。私は、コンピュータのプログラミングの経験がありますので、プログラミングの場合を考えてみます。プログラミングをする場合、最初に言語を選択します。言語が決まれば、予約語と呼ばれる基本的な言葉やその文法が決まります。次に、その言語を使ってのプログラミングになります。プログラミングでは、何かの処理の手続きを決めることで、ある一定の入力に対して、常に同じ処理を行って、手続きに従った出力を行うことができます。これをプログラムと呼びます。プログラミングでは、最初に当該プログラムで使用する目的を持った言葉を宣言します。例えば、yearという言葉は数字の2020を表す等です。次に、入力に応じた手続きを文法に従って指定し、結果の出力を行います。実際には異なる場合もありますが、おおよそはこの様な動きをします。
 プログラムの出力結果を別のプログラムの入力とすることで、多段階の処理を行わせることもできます。これらの一連の仕組みをシステムと呼びます。複雑なシステムもプログラムが集まって動作するということです。つまり、複雑な処理であっても、言葉を宣言して、手続きを宣言することで、ある一定の入力に対して、予め定められた処理が行われて、決まった出力がなされるということです。
 これを宣言的記憶に当てはめて考えると、エピソード記憶は、意味記憶によって構成されることになります。「いつ、どこで、誰が、どの様な理由で、何のために、いくらで行ったのか」というエピソードを意味記憶を活用して5W1Hのような構成で記憶するということになります。
 意味記憶は、辞書の様なもので、言葉が言葉で説明されますが、プログラミング言語の様に予約語が無ければ、そもそも言葉を説明できません。つまり、基本的な単語が必要です。チンパンジーは100個くらいだそうですが。人間であれば4歳児でさえ3000個くらいの単語を使えるそうです。最初は、「ママ」、「パパ」、「赤い」、「嬉しい」、「悲しい」、「痛い」、「速い」、「遅い」等の基本的なものの名称、情動に係る名称(即時記憶としての感覚記憶ではなく、意味記憶としての情動の記憶)、運動に関する名称、更には時や場所に関する名称とその意味を理解するものと思われます。
 次に、これらの基本的な意味記憶を活用した、概念の記憶(内包による場合と外延による場合があります)、手続きの記憶(非宣言的記憶の身体で覚える手続きの記憶ではなく、意味記憶としてのノウハウ等の記憶です)等の高度な内容の意味を記憶します。また、それらの記憶は、系統化、パターン化されてより高度な一般化された記憶となります。これらの意味記憶により、エピソード記憶は構成されますが、エピソード記憶も意味記憶と同様に、系統化、パターン化されて意味記憶と同じように記憶されます。
 人間は、このような構成をした宣言的記憶により、1つの言葉や出来事という入力に対して、当該入力に関係する系統やパターンを手掛かりにすることで、膨大な宣言的記憶の中から関係する言葉等を素早く選び出してくることができるのです。日常における出来事からの気付き、数学的な法則への昇華、芸術的な閃き等もこの宣言的記憶によるものであるといえます。

2)意識する

 「意志」というと実体のない形而上の話になると理解が難しいので、誰もが経験によって理解できる形而下であって、意志に近い言葉である「意識」について考えてみます。
 仏教(大乗仏教)の唯識論では、個人にとってのあらゆる存在は、唯(ただ)、八種の識(しき)によって成り立っていると考えます。八種の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の前五識、意識、末那識と阿頼耶識です。末那識とは潜在意識の様なもので、阿頼耶識とは、前五識、意識、末那識や個人が存在する根本となるものと考えられています。ここでは、本人が自覚している意識について考えます。
 人間の身体は、本人が意識して動かすことのできるものがありますが、血流の様に意識して動かせないものもあります。無意識のうちに自律神経系が内臓諸臓器の機能を調節してくれています。人間関係においても、男女の関係や組織の活動は、本人が意識することで変わることがありますが、本人が無意識であっても変わることもあります。
 意識とは、脳の働きによって、自ら考えたことともいえます。人間の脳の活動について考えてみると、人間らしい活動をすると考えられている大脳皮質は、深い睡眠(ノンレム睡眠)の時にほぼすべての神経細胞(ニューロン)が活動してるのに、起きている時は6~37%の神経細胞しか活動していないといわれています。眠っている間に記憶の整理がされているという説があり、それが夢になっているともいわれます。しかし、同じ夢を何度も見る場合もあります。夢は、現実的にあり得ないことがあり、現実感が無いという人もいますが、夢と現実の区別がつかなくなる経験をしている人もいます。私は、意識が脳の活動であることは、疑いの無いことだという考えですし、夢は、無意識な脳活動の結果であって、無意識に動いた手を認識できるように、無意識の脳の活動を認識した結果だと思います。
 世の中には、エイリアンハンド症候群という病があり、自分の手が自分の意図に反して勝手に動いてしまうそうです。怪我などによって四肢を切断した人が、無くなった手足の痛みを感じる幻肢痛という病もあります。人間の脳は、盲点を意識することなく、見えていない部分をカバーして見えていると感じています。意識というものは客観性や再現性の無いもので、形而下とは言えないとも考えられますが、私は、本人の宣言的記憶に従った行為は、意識したものと考えられますし、形而下の行為だと考えています。つまり、意識する行為というのは、長期記憶において、非宣言的記憶(非陳述記憶)を含めない、宣言的記憶(陳述記憶:エピソード記憶や意味記憶)によって考えた行為と言えるのではないかと考えています。
 誤信念課題という心理学上のテストがあります。代表的なサリーとアン課題では、紙芝居等で、1)サリーとアンが一緒の部屋で遊んでいる。2)サリーはボールを籠に入れて部屋を出る。3)アンが、ボールを籠から箱に移す。4)サリーが部屋に戻る。という状況を見せて、「サリーは、ボールを取り出そうと最初にどこを探すか?」という問いで、籠と答えられるかというものです。3歳までは、この質問に正解を答えられませんが、4~7歳になると答えられるようになってきます。しかし、自閉症の子供は、この課題をクリアーすることが難しい場合が多いと言われています。但し、アスペルガー症候群の人は、健常者と変わらなかったという結果もあるようです。心の理論能力は高くないが、知能レベルが高いこともあり、学習能力が高いことから、理論的に正解することができるのではないかと考えられています。無意識で判断することはできないが、意識することで判断できるということです。意識するというのは、情動的な行動、無意識の行動ではなく、宣言的記憶を元にして考えるということだと思います。
 「怪しげな人が自分の方に向かってくる。」、「好意を抱く異性が自分の方に向かってくる。」意識する瞬間です。「飲み物が目の前に差し出された。」エイリアンハンドではなく、意識して手を出します。箱の中ではなく、籠の中のボールを意識して取り出します。「経験のある展開が目の前で繰り広げられ危険が迫ってきたことを気付く。」次の展開を意識します。宣言的記憶に照らすことで人は意識します。宣言的記憶にない展開であってうろたえてしまうという場合も意識するという意味では同じです。宣言的記憶に無関係に意識するということはありません。

3)記憶の積み重ね

 宣言的記憶は、言葉が付されているとは限りません。個人的には、多くの記憶はプログラミングでの記述と同じようにラベリングされており、ラベル(名前等)を指定することで取り出してくることができると考えています。しかし、ラベリングされていないあやふやな記憶というものも存在しますし、そのあやふやな記憶を思い出すこともできます。年を重ねてくると、内容を思い出すことはできても、その名前が思い出せないという逆の現象もよくあります。プログラミングでも、多量に蓄積されたデータベースから情報を取り出す際、番号や名前ではなく、男性、年齢が30歳以上40歳未満、東京都豊島区に在住、開業している医師の様に条件を指定して検索するという方法が採られます。氏名のどこかに「識」という文字がある人という様なあいまい検索の機能もあります。
 さて、人間はどの様に宣言的記憶を重ねていくのでしょうか。先ず、記憶する前に情報を認知できることが重要ですので、五感が発達します。生後6カ月程度で成人と同様の視覚機能が育ち、生後数年間は新しい言語等のわずかな音の違いを聞き分けられる能力が保たれるようです。味覚は生後6カ月くらいから発達し始め10歳ごろにピークを迎えるといわれていますが、生きるための本能から、食べられるものか、身体に必要なものかという判断をする程度の味覚の能力は、生まれながらに持っているようです。そして、乳児期は、保護者の愛情を理解し、信頼感を心の拠り所として、行動範囲を広げていき、幼児期になり、興味の幅を広げ、社会性を発達させていきます。例えば、子供同士によるごっこ遊びが出来るようになり、自分の感情と他人の感情の関係が理解できるようになります。この発達段階を通じて、自分の感情表現ができるだけでなく、自分の意志を伝えることができるようになります。多くの言葉を理解するようになり、経験する物事と言葉の関係を理解し、信頼を基本として、生活習慣、社会性を理解していきます。何はして良い、何はしてはいけないという道徳性を身に付け、それがその人の行動規範の基本となっていきます。
 学童期には、大人から善悪の判断を学ぶだけでなく、友達から善悪の判断を学べるようになります。そして、各種メディアの多くの情報に触れて、社会が広がり、多くの判断基準があることを理解するようになります。社会のルール、算数等の法則、運動と身体の関係、音楽や美術の感性、偉人の有り様、保護者・友人・自分の位置付け等を理解していくことで、単に善悪だけではなく、損得やどうありたいと考える行動規範が形成されてきます。
 大人になるに従って、宣言的記憶は階層化され、複雑化されていきます。性意識が高まり、多くの人に出会うことで、好きと嫌いがはっきりしてきます。味覚も変化し、多彩な味を理解できるようになります。感謝の気持ちを理解し、嫌悪感の様なものも生まれ、礼節というものを備えるようになります。また、こういった記憶の色分けが可能になります。どういう系統の記憶かということです。また、年齢を重ねるごとに記憶のパターン化が進みます。
 子供の頃は、新しい出来事や初めて出会った人に対して、どういう有様なのか、どういう人なのかを理解しようと努めますが、大人になるに従って、多くの宣言的記憶が蓄積されることから、この記憶を効率的に処理できる様にパターン化するようになります。また、他人のパターン化の定義を理解して、自信のパターンとして活用するようにもなります。大人になると、自分の知り得ないことであっても、自身の知りうるパターンに無理やり当てはめて理解しようとする場合もあります。一部を聞いて、全てを理解した気になってしまいます。
 この様にして、意味記憶を積み重ね、エピソード記憶を積み重ねていきますが、人によっては、自身のパターンに無い記憶を積み重ねることを止めてしまう場合があります。右から左に聞き流すという行為です。私の考えですが、既存の学校教育の弊害からか、多くの人は、最もふさわしと思える回答を1つだけ見つけようとします。自身の知りうるパターンに照らして、何か1つのそれらしい回答が見つかれば、そこで考えることを止めてしまう人が多いように思います。自身のパターンから見つけられそうになければ、記憶から探すことさえ止めてしまう人もいます。大人や老人になればなるほど、こういう傾向は顕著になります。
 もちろん、何歳になっても新しいことに貪欲な人もいます。学校教育ではなく、実際の社会生活においては、回答が複数存在することが普通です。見方や視点を変えることで回答が変わることも普通です。例えば、総論で考えた場合と各論で考えた場合で答えが食い違うことがあります。被害者の立場と加害者の立場で答えが変わるのは、普通です。売り手、買い手、製造者、販売者、政府、市民、政治家、メディア、当事者等の立場の違いで、同じ事象に対する答えは違ってきます。売り上げを優先させるのか、利益を優先させるのか、顧客優先なのか、株主優先なのか、社員優先なのか等の見方を変えることでも答えは違ってきます。パターンに当てはめて、回答を1つ決めるのではなく、新たな出来事に対して、多くの検討を重ねていくという子供のような発想が重要なのだと思います。

4)意志の形成

 宣言的記憶は、大人になるに従って、多くのものが蓄積されていきます。私は、宣言的記憶というものは、縦の関係性(階層構造)と横の関係性(ネットワーク構造)があり、更に、特別に記憶されたパターンとの関係性があると考えています。記憶は概念化されます。概念は、内包(性質で説明する)と外延(概念が適用できる事例)で説明できます。意味記憶された内容を意味記憶された内容で説明するのが内包であって、意味記憶同士の縦の関係性といえます。外延の関係にある意味記憶されたものと意味記憶されたものを似た性質(系統等)で繋ぐのは横の関係性といえます。エピソード記憶は、意味記憶で構成されますが、エピソード記憶が異なるエピソード記憶により縦に構成される場合もあります。似たようなエピソード記憶を横につなぐこともあります。この様にして、エピソード記憶や意味記憶は縦や横の関係により、蓄積されていきます。全ての出来事を記憶するのは効率的ではないので、似たような記憶はパターン化されます。例えば、この人達は、親からの財産を相続したお金持ちの人達で、自分とは住む世界が違う人達という様に、「お金持ちの人達」、「住む世界が違う人達」のようなパターンで記憶し、このパターンに入った人達は同じ個性で扱われ、似たような情報を記憶しません。但し、この場合においても、1つのものを「美男美女の人達」、「大阪のおばちゃん」の様に異なる複数のパターンで色分けされる場合もあります。人は複数のパターンの記憶を蓄積し、パターン同士も縦や横の関係で構成させます。そして、多くのエピソード記憶や意味記憶が、パターンに関係づけられます。
 私は、意志とは、高度な行動規範だと考えています。行動規範は、人が意識した状況に応じて決められてます。単なるルールのような場合もありますし、こういう場合はこうした方が良い、こうした方が得だと考えているような場合があります。バスに乗ったらなるべく一番後ろの席に座る、試合会場に入る時は必ず右足から入る、とにかく好みの異性に出会ったら話し掛けてみる等のルールを決めている場合がありますし、エコと思えない行為はしない、儲からない仕事はしない、先ずは自分がやりたいことを定めることに注力する、先ずはそれが自分の子供の為になるか否かで判断する等のように具体的な行動ではなく、行動を決める判断基準のような行動規範もあります。そして、意志とは、行動規範の一種で、自分がこうしたいと考えているものだということです。他人と同じことはしたくない、人の役に立つことをしたい、とにかくお金持ちになりたい等のようなもので、他の行動規範の上位に位置する判断基準になります。
 悟りという言葉があります。気付きの一種とも言えますが、自らが法則と考えたような気付きだといえます。自分の複数の経験(宣言的記憶)から、統一的な法則を見出す行為といえますし、小さな悟りから大きな悟りまであります。多くの人はお金が一番だと思っているに違いない、健康が一番だと思っているにちがいない、何より尊厳が無視されたり損なわれることを嫌うに違いないのような小さな悟りもあります。これらのようなそれぞれが矛盾した悟りを自分の都合の良いように使い分ける人もいます。森羅万象の出来事に対するような大きな悟りもありえます。人生を悟ったという人もいますが、諦めたということかもしれません。多くの場合、悟りは、行動規範に繋がると思われます。
 前述した記憶のパターンには、判断基準も含まれますし、行動規範も含まれます。人は多くの行動規範をもって行動しますし、行動規範も縦や横の関係をもって記憶されます。また、意志も同様に宣言的記憶として記憶されていますし、複数の意志で構成されています。

5)ロボットは心を持つことができるのか

 先ず、心とは何でしょうか、人の感情や行動の元になるもののように思いますが、人によってその定義は異なると思います。私は、自身を無神論者だと思っているのですが、多くの日本人と同様に、神社、仏閣、教会ではお祈りもします。神様が宿るとされるものに畏敬の念を抱きます。心とは霊魂に関係するもので、理論的に考えられるものではないという考えの人もいるでしょうが、ここでは、理論的に考えられる心について記載します。
 心を入れ替える、心のこもった贈り物、広い(狭い)心のような言葉の使い方をしますが、私には、多くの場合、前述の意志と同様に使われているのではないかと考えています。つまり、その人が蓄積してきた宣言的記憶を元にした、行動規範から導き出されたものであって、行動する際に、相手の立場や考え方を思いやり、自らの行動規範に従い、為すべきと考えた意志こそがその人の心となるのであろうと思います。
 有名なロボットの行動規範に、鉄腕アトムのロボット法、アイザック・アシモフのロボット三原則があります。「ロボットは人間に危害を加えてはならない。」のようなものです。これらは、ロボットを製造する際、予めプログラミングしておくという考え方ですので、ロボットが自分自身で心を持つというものではありません。しかし、ロボットも自らの経験から学習することで、宣言的記憶を蓄積していくことはできますし、その記憶のパターン化や、どういう考えを元に行動すべきかということと、何を信頼すべきかということから自らの行動規範を新たに追加していくことが可能だと思われますし、意志を持つことも可能だと思います。
 予めプログラミングされた行動規範があったとしてもそれもって心があるとは思いません、しかし、予めプログラミングされた行動規範を元にしたとしても、当該行動規範を元に新たな行動規範を蓄積したり、既存の行動規範を修正し、強化したりすることで経験に基づいた意志を形成していくことは可能なのではないかと思います。そして、こうした自由意志があったとすれば、ロボットに心はあるといえるのではないかと考えます。ロボットが自由に意志を決めていくことが許されるのか、ロボット法は必要ではないか等という現実問題としての議論はあると思いますが、私は、ロボットが自由意志を持つ、つまり心を持つといことが理論的に可能であろうと考えています。